6月下旬のある夕刻、津市の中河原海岸を散策した。
梅雨の晴れ間のさわやかな風がわたり、干潮なのだろう、
波打ち際は100mほどの彼方に引いていて、姿を現した干潟に水鳥たちが群れている。
今、のどかな光景が広がるその辺り一帯で、
昭和30年7月28日、市立橋北中学の女子生徒が水泳の授業を行っていたところ、
大惨事が起こったことをご記憶の方も多くみえることだろう。
その様子を伝える文章を、以下に引用する。
生徒達は次々と海底へ引きずられてゆき、36名が死亡、生存者は9名という悲惨な事故となってしまった。
この日は天候も良く、遠浅のこの海岸では子供でも足がつくはずだった。
地元の人は「澪(ミオ)に違いない」と言った。
澪とは、遠浅の海岸に大きな川が流れ込むことによってできるすり鉢型のくぼみのことで、
川の流れと波がぶつかって、「タイナミ」と呼ばれる津波が発生することがあるのだ。
ところが、生存者の一人である中西弘子さんは、津波ではない恐ろしい体験をその時していた。
助けを呼ぼうと海岸の方へと急ぐ弘子さんの足にその時、何かがからみついた。
確かにそれは人の手で、その手が弘子さんを水中に引き込もうとしたというのである。
昭和20年7月、日本は第二次世界大戦の真っただ中で、アメリカ軍の空襲は津市にも被害を与え、
250人の市民が焼死した。火葬しきれなかった遺体は7月28日、海岸に埋められたという。
生徒達の事故があった日と、空襲で犠牲となった人々が埋められた日は、奇妙に一致する。
弘子さんや他の人が見たあの防空頭巾の人々は、その犠牲者たちの霊なのであろうか。
現在この海岸は、遊泳禁止となっている。
ズボンの裾を膝の上まで折り曲げ、干潟を渡り波打ち際まで行こうとした私は、突然、砂地の中へ両足をめり込ませた。
膝を越えて腰近くまでぬかるんだ砂の中に吸い込まれるようにはまり込んで、、踏ん張りようもなく沈んでいく。
あわてて両の手を届く限り伸ばして体を支え、ゆっくりと片方ずつの足を引き抜き、潟の上に這い上がった。
少し落ち着いて干潟の様子を見てみると、砂地の上を川のように海水が溝状に溜まっている部分があり、
その部分の砂地はトロトロで、手を突っ込んでみるとズブズブと入っていく。
干潟になっているときだったから、手をついて足を抜くこともできたし、その様子を見ることもできたけれども、
潮が差して海水に覆われた状態で足を取られたら、手をつくことも、足を抜くこともできなかっただろう。
今日も干潟は穏やかで、水鳥たちが群舞する光景はのどかである。
砂地の中に1人の人間が消えたとしても、全ては波が洗い流して、
あとはまたいつもと変わらない光景が繰り返されたことだろう。